いのちを燃やして生きているかという問い
先日27歳の誕生日を迎えました。いぇーい!
ついにアラサー。「アラサー」と呼ばれるこのステージに昔から強い憧れがあり、自分もついにそのステージか。と待ち望んでいた時代に突入。
なぜ「アラサー」に憧れていたか
学生時代に所属していたある団体がある。その団体に加入できるのは18歳から30歳までの男女。当時学生だったわたしからみて、一番きらきら輝いてみえていたのが、このアラサーと呼ばれるステージに立った人たちだった。そういう人たちに学生時代に出会えていたわたしはラッキーだと思う。
まだまだ(特に地方では)アラサーといえば、「結婚」がちらついてしまう。女性の年齢をクリスマスケーキに例えて”ウマい”と思っている人たちからすれば、このアラサー世代は売れ残り世代である。不愉快この上ない、この別にウマくも美味しくもないこの表現に縛られている同世代も少なくない。そんな中わたしは先に挙げた団体での様々な活動を通して「きらきら輝くアラサー」にたくさん出会ったので、そんなしょうもない表現に捕らわれず今日まで生きてきた。今思ってもやっぱりラッキーだった。
この団体に入ったのもひとつの縁で、学生時代にほとんどの人が経験するアルバイト。そのアルバイト先で勧誘されたのがきっかけだった。この団体への加入を勧めてもらえる人間だったこと(たまたま人手不足だったw)、ちょっと面倒くさいと思ったが、「なにか学べるかも!」という好奇心からふたつ返事できたことは、かなり正しい選択だった。人生は常に選択の連続で、いつもチャンスや幸運に囲まれているのに多くの人はそれに気が付かない。自らチャンスや幸運をつかみとれるのはいつも好奇心だとわたしは思う。好奇心と余裕かな。チャンスが転がってても両手がふさがっていたら拾えないもんね。
私の他にも何人かに声をかけていたけど、結局入会したのはわたしだけだった。おかげでいろんな経験ができたし、素敵な人にもたくさん会えた。旅行、留学以外の目的で海外にもいけた。せっかく所属してもなにもせず、満期(30歳)を迎える人もいれば、能動的に活動して、どんどん自分の世界を広げる人もいる。わたしはどちらかというと後者だったと思う。自分の運を生かすも殺すもすべては自分の行動次第だなと思う。
実際にアラサーのステージにたってみて
ここからが今日の本題になるんだが、実際にアラサーのステージにたってみたわたしが今感じていることは「不安」「焦り」「無力」
あんなに憧れていたアラサーステージなのに今の自分は全くの真逆。わたしがよく使う表現でいえば、今のわたしは生命(いのち)を燃やしていない状態にある。
理由は明確。やりたいことをやれていないから。
当初の計画がうまく進行していれば、今頃仕事をやめ、海外にいく準備をしていたであろう。そして来年4月にはお気に入りの土地で起業していた。はずなのに。
すべてダメになってしまった。
そう、コロナのせいで。
文句を言っても、恨んでもしょうがないことであるのは事実だが、恨まずにはいられない。コロナのばかやろーーーーーー!!計画ぶち壊しにしやがって!
ということがあって、今非常に鬱なのです。
それでも先月までは実家でテレワークしてたから、ここまで沈んではいなかった。今月に入り、都会の一人暮らしに戻ってきて、独房のような狭い部屋でのテレワーク。外に出ても木のにおいがしない。鳥の声がしない、虫の音が聞こえない。加えてなかなか明けない梅雨。太陽をみなくなって何日たつだろう。日に日に気持ちは沈んでいき、自分自身からエネルギーを感じなくなった。これはやばい。
今の仕事はシステム会社でコロナの影響はほとんどない。むしろコロナのおかげで売り上げが伸びているような稀な会社である。それだけ先代が先を見据えて始めたサービスだった。減給もボーナスカットもない。テレワークが認められ通勤もなくなった。毎日てきとうに生きていても減ることのない給料。休んでもお金が入る有給制度。ある人からみれば今のわたしの生活は恵まれていて贅沢だ。でもわたしは、これが人間の住む場所なのか。これが人間の営みなのか。日々不満と疑問が尽きない毎日を送っている。
前にも書いたが、わたしにとっての豊かさとは自然と共に生きることなのである。今のわたしには圧倒的に自然が足りない。今の会社で取り扱ってるサービスは確かに世の中のニーズには応えているが、わたしの生きたい道とは真逆の信念をもっている。
自覚すると人間の体は素直。夜眠れない、朝起きられない、なにをするにも無気力、ときどき耳が聞こえにくくなる。ストレスが目に見えるかたちで表れ始めた。
今の状況が悪いな、というときには相手に何かしらの変化や期待を求めてはならない。ということを経験から知っている。求めても変わらないから。変わるのが簡単なのは自分自身。だからわたしはまず生活を変えた。SNSをやめた。シャワーをやめた。夜更かしをやめた。代わりに読書を始めた。入浴(しっかり湯船につかる)を始めた。そうするとちょっとだけ楽になった。でも根本的な解決にはならない。
コロナという得体の知れないものに振り回されて、会いたい人には会えないし、行きたいところにはいけない。もう怒ったぞ!
わたしの人生はわたしのもの。わたし以外に舵は握らせない!!振り回される側じゃなくて振り回す側になる!!みとけよ、コロナ!
逃げるは恥だが役に立つ
ということで、仕事を放り出してひとり旅に。わたしの求める自然を求めて田舎へ逃亡することに。逃げるは恥だが役に立つ。逃げることは勇気のいることだがなにも恥ずかしいことではない。「わたし鬱なんです!助けて!」たくさんの人に助けを求めた。逃げる場所があって、助けを求められる場所(ひと)があって、それを恥ずかしいと思わずにさらけ出せる自分がいて、ほんとによかったなと思う。
逃亡生活では、人工物の音がしない静かな夜が迎えられて、つくりものじゃない本物の風で涼むことができて、自分の釣った魚を食べて、近所のひとが作った野菜をもらって、火を起こして料理をした。当たり前のことだけど、それをしなくてもいい生活も確立されている。今の文明文化生活を全部捨てて原始時代に戻りたいとは思わないし、戻れるわけもないけど、たまーーーに人間の原点に立ち返ることは人間的にみてやっぱり必要なことだと思う。
不自然な状態が長く続くとどこかで歪みが生まれる。それは人でも社会でも経済でも同じ。今回のコロナウイルスの状況を資本主義への挑戦だなんておもしろいものの見方をする人がいるけど、こんなことがない限り気がつかなかった当たり前があるのは事実。改めて自分の生き方を見つめなおすいい機会になった。心も体も少し元気になった。心と体が元気なうちにはじめよう、村づくり。
わたしも誰かの助け、逃げ場になる場所をつくりたい。
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